ForGetting Things Done

「水のように澄みきった心」で頭空っぽに。

落ち着きのなさを打ち出す

 アラフォーになると落ち着きを求められたりします。本気で何かしてやろうと思っていると「青臭い」「意識高い」「胡散臭い」と揶揄されます(「意識高い」は元々ネガティブな言葉じゃないのに)。

 

先日私は、自分のような特性(特にADHD不注意優勢型)を持ち生き辛さを抱えている人にタスク管理を広めたいと思いつつ、「でも、みんなに通じるわけじゃないし」「自分が良いと思っても、それは押し付けになってしまうのではないか」というブレーキがかかっているという話をしました。

 

自分がタスク管理で色々と人生好転したと言っても、誰しもが同じようにうまくいくとは限りません。頭では分かっているつもりなんですが、それを認めるのができなかった/できないんでしょうね。

 

そう思っているときに、この記事を読みました。

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そこで出会ったハーバード大やMIT(マサチューセッツ工科大学)の人たちは、確かに優秀な人たちでしたが、日本人と比べて飛びぬけて優秀かというと、「優秀さ」という意味ではそれほど変わらないな、という気がしました。

 

でも、1つ大きく違ったのは、みんな「何かを変えてやる」と本気で思っている度合いがすごいんです。みんな自分の専門性や自分の領域に閉じこもるのではなく、あえて、大学院などに飛び出して、本気の本気で「何かを変えてやろう」と信じている。

 自分の村に閉じこもるのではなく、外の世界に出て勝負をする。「政治を変えてやる」とか「障がい者に対する偏見を変えてやる」とか本気で思う。そういう人たちに囲まれていると「俺もなにか変えなくちゃダメだ」みたいな気持ちになってくるのです。みんなで高め合っていこうとする、そこがもう、全然違いましたね。

 

「そんなの真面目に考えているの?」とか馬鹿にされている人が、後に大きな成果をあげたりします。それを真正面から肯定する趣旨の内容にハッとしました。

 

読後、自分にブレーキはかけない方がいいんじゃないかと考えました。もちろん、タスク管理を覚えてもその後の人生に何の影響も無い人もいます。しっくりこない人もいるかもしれません。ただ、それを判断するのは私ではないので、私の中でブレーキをかけてしまう必要はないのですよね。

 

ここでいうブレーキはいわゆる忖度というものでしょう。あるいは、アドラー心理学で言うところの「課題の分離」ができていない状態とも言えます。

 

世間的には、この忖度をすることとか課題の分離をしないことを「落ち着き」と言うのでしょう。そんな落ち着きは果たして必要なのか。もしかしたら目の前の人が必要としているかもしれないのに「要らないって言われるかもしれない…」と恐れて自分で引っ込めてしまうのは、やめた方が良いと考えるようになりました。

 

「これをやれば必ず上手くいく」といった話はしませんが、「タスク管理をしたらこんな得られることがありました」はブレーキをかけずに言っていこう、アラフォーらしからぬ落ち着きのなさを打ち出していこうと思います。