ForGetting Things Done

「水のように澄みきった心」で頭空っぽに。

きちんと機能するシステムでGTDを継続するということ

継続するということは、それがどんなことであれ、記録を残すことに他なりません。

 

GTDの弱点として挙げられることが多いのは、「記録を重視していない」ということです。確かに、記録を残すための方法を事細かに説いてはいません。GTDが求めるものは、今の自分が抱えていることをいかにして効率よく、精神的負荷をかけずに完了させるか、これに尽きます。終わったタスクの処理について言及はされていません。

 

そもそもGTDは「物事を成し遂げる技術」であって、「完了した物事の保管技術」ではないのですね。ちゃんとした人がした仕事においては、完了したタスクに関する書類やメモは適宜分類され整理されて収納され、メールならメーラーにある適切なフォルダ内に振り分けられ既読メールとしてそのまま保存されます。しかしこれは保管術の話であってGTDの守備範囲ではない。

 

ただ、きちんと機能するGTDのシステムは、タスクを適切に把握して整理して実行したという事実の記録が結果的についてくると考えています。特にタスクの記録が「モノ」から「データ」になることで、モノの記録の不便さ、処分しなければいけない点をデータはクリアします。結果、実行段階できちんと整理された記録は結果的にシステムに残り、GTDを運用する本人にとって大事な「記録」としての意義を持つことになります。

 

ところで、記録を残す意義とは何でしょうか。私は、自己肯定感の向上だと考えています。自分の歩んできた道程を振り返るときには、「ああ、自分はこんなことを成し遂げたんだなぁ……」という感慨と共に、自信を持ちます。これが記録する目的であり、記録が私たちにもたらしてくれる効能です。

 

卑近な例ですが、私のタスク管理ツールでは発生したタスク数、完了させたタスク数が、割と大きめのフォントで表示されます。日々タスクをこなすことで増え続けるこの数字が「君はこれだけやってきたんだよ!」という自信を高めてくれるのです。

 

つまり、GTDのシステムは、タスクの実行管理を司る装置であり、なおかつ記録の量を自己肯定感の高さに変換してくれる装置でもあると考えています。GTDの運用システムを継続することは、「記録を重視していない」という指摘をやんわりと退け、たまるタスクの記録を後ろ盾に、より強力な自分の味方になってくれるものであると考えています。