ForGetting Things Done

「水のように澄みきった心」で頭空っぽに。

不用意に広げてしまう「責任」の範囲を、GTDで縮める。

責任という言葉を聞くと、ほんの少し体がこわばります。すべてにおいて間違っちゃいけない感を受けるからです。

 

責任を持つという言葉の曖昧さ

責任を持つとはどういうことか。その責任の対象となる「やるべきこと」の目的を達成するよう、主体的に進めることではないかと思います。

 

例えば、会社の新製品開発プロジェクトの責任者となった場合には、新製品を企画・提案して製造し、場合によっては商流にのせるまでやって目的の達成となります。

 

子育てなら、出産して育児・躾・小中高校へ行かせる、あたりでしょうか。人によっては、大学を卒業して企業に新卒採用されるところまでだったり、成人するまでだったりしますかね。

 

こんな風に、広く「責任」と受け止められている内容を具体的に考えたことは、そう多くはないと思います。私も含めて多くの人が曖昧なままに「親の責任」「プロジェクトリーダーの責任」という言葉を使っています。

 

責任、やたら広くないですか?

「すべてにおいて」「間違っちゃいけない」は、ほとんど自分が作り出した幻想であって、よく考えれば「限定的な場合で」「多少間違っても目的を達成すれば良い」になっても不自然ではないはず。

 

タスク管理手法"GTD"を実践するようになって、「やるべきこと」の目的を必ず意識するようになりました。すると、案外余分なところまで「やらなければいけない」と思い込んでいたことに気が付きました。

 

例えば、会社の飲み会。会社員として、周囲の人とスムーズにやりとりをして仕事を進めていくことが望まれるから、という理由です半強制的に参加させられプライベートの時間を削られるという話をよくききます。

 

私は今の会社の人たちなら社内の飲み会は嫌いではない(むしろ好き)のですが、半ば義務化されて嫌々参加している人も少なくないですね。仕事に支障をきたさない程度にコミュニケーションを取ることができれば、社員としての責任は最低限果たしているのではないか、飲み会に参加することは義務ではないのではないかというのが私の考えです。

 

飲み会に参加しないとその目的を達成することができない、とは必ずしも言えない。だから、飲み会に参加しなければと責任感を持つ必要はないということになります。

 

同じような話が、周囲の雰囲気から残業してしまう問題、同じ会社には3年以上いるべき問題、うつの人は家に引きこもって部屋の隅で体育座りしていなきゃいけない問題などに共通すると思います。

 

このように、責任の範囲を知らず広くしてしまうことが多々あるのではないでしょうか。

 

GTDの見極めは、使える!

この考え方に対して賛成も反対もあるかと思います。大事なことは、自分なりのロジックでスタンスを取ることかなぁと。

 

そのロジックは、私にとってはGTDです。GTDのフローのうち「見極め」にある、やるべきことに対して、その目的を明らかにするというもの。イメージできるくらい具体的な目的を立てないとGTDは進みません。

 

達成すべき目的が具体的になると、それを達成するのに必要なことが次第にわかってきます。逆に、その目的を達成するのに不要なこともわかってきます。自分がやるべきこととやらなくてもいいことの区別がつくようになり、責任の範囲が分かってきます。

 

GTDを実践すると、必ず「見極め」をする必要があります。そうなると、必然的に自分の責任の範囲を意識するようになります。そして多くの場合は不用意に広がりすぎた曖昧な責任を、本来の責任範囲へ縮めることになる気がしています。

 

最後に

何気なくやっていることも、目的を明確にするGTDの見極めフローを実践すると、余計な部分が削ぎ落とされていく感覚があります。それはある種快感です。その快感は、自分の行動を自分自身がドライブしていることなんじゃないかなと思っています。

 

「責任」と一言で済ませてしまっているものに対して、ちょっと考えてみるのはとてもお勧めです。