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「水のように澄みきった心」で頭空っぽに。

頭すっきりの理由

頭から追い出すことのメリット

タスク管理の1丁目1番地、「やるべきことを書き出して、頭の中から追い出す」です。これについては、タスク管理を実践されている皆様におかれましては、異論は無いものと思っています。自分の脳をPCのハードディスク、やるべきことを書き出す先のタスク管理ツールを外付けハードディスクに見立てて説明されたりしますね。

 

私もこのメリットを実感しております。タスク管理をやるようになってから、それこそ頭の中が空っぽになったよなスッキリ感を味わっています。このスッキリ感、例えて言うなら「高校の定期試験が全部終わった時のような解放感」です。この感覚を毎日のように味わうともうやみつきです。 

 

本当に追い出せているのか?

最近ふと思ったのですが、脳内から本当にこの情報を完全にデリート(削除)しているのか?という疑問が出てきました。脳というのはとても高性能で、一度接した情報は、PCのメモリのように完全に消失するのではなく、記憶の奥底に沈んでいるだけだという話を聞いたような、聞いていないような。だから、ひょんなことで思い出したりしますよね。

 

モノの本によると、頭から追い出した分メモリの空き容量が増えるので、増えた部分でもっと色々考えることができる。そういった説明がされていたと記憶しています。果たして私たちの脳はそういう仕組みになっているのでしょうか。

 

忘れなければいけないのか?

多分、私たちの脳は、PCのようにある情報を完全に削除するのを意識的にすることは難しいと思います。それができたら、忘れたくても忘れられないあんな過去やこんな過去なんてあっという間に忘れることができます。それができたらいいですよね。でも残念ながらできないですよね。

 

記憶に残っているのなら、それはちゃんとタスク管理できていないということじゃないのか?という疑問が出てきました。完全に忘れなければ、頭から追い出したことにならないのではないか。タスク管理の求める状態では無いのではないか。

 

頭すっきりの理由

私なりの答えは「そのスッキリ感は、頭から追い出せているからじゃなくて『忘れてもいいという安心感』を得られているから」というものです。であれば、時々思い出したりしてもタスク管理が不完全だということにはならないですね。脳内には今日やった会議の話題とか気にかかる仕事の話が依然としてあり続けるわけです。それでも、同じ内容の記録を別の媒体にそっくりコピーしているから即座に思い出せなくても大丈夫だという安心感が、自分を解放していると感じさせているのだと考えています。

 

でなければ、退社後にふと仕事のことを思い出すたびに「自分はまだ業務タスクを背負い込んでしまっている!まだタスク管理ができていない!」と自分を責めてしまい、解放感を味わうどころではありませんよね。

 

タスク管理手法の金字塔「GTD」は、頭から「やるべきこと」についての情報を全て追い出すことで「水のように澄み切った心」を得られると説きます。それは「頭すっきり」の解放感とほぼ同じだと思われます。その実体は、頭から情報がデリートされたからではなく、忘れてもいいという安心感だというのが、今のところの私の結論です。