ForGetting Things Done

「水のように澄みきった心」で頭空っぽに。

会社ではどんどん責任転嫁すべき

「全員一丸となって」
「モーレツ社員」という言葉が幅を利かせていた頃は「全員一丸となって」とか「会社のために一致団結して」といった言葉が通用していたのだと思われます。その残照が今も一部に残り、会社の上層部から各従業員へ似たような言い回しでハッパがかけられます。

 

これらの言葉、本来なら組織を完全に運営していくためには必要なものだったと思われます。仕事のボールがお互いの中間地点に落ちる、いわゆる「お見合い」が生じたりするのを防ぎたい。だから、どんなところにボールが飛んで来てもキャッチしようじゃないか!と。

 

しかし「全員一丸となって」という言葉には責任の所在が曖昧になるという副作用があります。自分だけが責任を負いたくないための方便として使われてしまいます。経営が傾き始めると「経営者目線」「全員一丸」が経営者から連呼される、というのはもう完全に会社あるあるです。

 

責任の所在を曖昧にしたいという考えと、会社には職務分掌とか職務権限が存在し、担当業務や職位(あと給料!)が違う人間が会社内に存在することは、相いれません。

 

タスク管理メソッド”GTD"の開祖デビッド・アレンはこのように書いています。

 

我々が住んでいるこの「共同社会」には、あまりよくない側面がある。それは責任の所在が曖昧になりがちになるということだ。「これに関する責任者はわたしだ(君だ)」と宣言するのが当たり前になっている会社はほとんどない。こうした宣言には、傲慢だというイメージがあるようだ。
(中略)
本当に傲慢な態度とは、決めるべきことを曖昧にしたまま話し合いを終わらせてしまうことではないだろうか。そして本当の共同作業とは、何をするか、誰がそれをやるかを明らかにする責任を全員が負うことにほかならない。

(デビッド・アレン「ストレスフリーの整理術」より)

 

「やるべきことを明らか」にするGTD
結局「誰が何をやるのか」を明確にしないのと、ともすればやるべきことを明らかにしないで会議が終わって何も残らないこともままあります。こうなると集まり損なのですが、何かをやった気になってしまうんですよね。

 

GTDでは、会議の目的が定まっていれば、それに対して次にやるべきことが当然のように発生します(GTDをきちんと運用していれば!)。そして、それを誰が実際に担当するかを決めれば、業務のお見合いはなくなるという寸法です。

 

GTDでは、一旦把握したタスクを「次に(自分が)やるべき行動」と「(相手)対応待ち」などに分けて手元に置いておきます。この分けることをGTDでは「整理」と言います。会議で出てきた「やるべきこと(タスク)」が一体誰がボール持ちなのかを決めると、上記の例の会議のようなことにはなりません。「このタスクはあなたの」「このタスクは君の」「このタスクは私の」と決めることで、GTDは正常に動き出し仕事を進めることができます。

 

仕事を進めるために、積極的に(自分も含めて)責任転嫁していきましょう。それはネガティブなものではありません。GTDで正しく責任転嫁、よろしければぜひご一緒に。