ついやってしまう「安請け合い」
「社員の駆け込み寺」
今思い出すと恥ずかしいのは「私は会社の駆け込み寺として、何かあったときに頼られる存在となり、屋台骨を支えてきました」といった発言を、転職の面接でしていたことです。いやぁ、今書いていてもこそばゆい。
実際、そのような立場で頑張っている人はいると思います。総務と呼ばれる人たちですね。その方々を馬鹿にするつもりは毛頭ありません。私も総務でした。総務として自分は何ができるかを考えたら、「多少無理な要求でも頑張って応えてこその総務」「総務はNOと言わない」といった結論を出したのです。これも悪くはないと思います。
では、何が恥ずかしい要素なのか。そんな頑張っている自分に酔ってしまい、キャパシティを超える業務負荷がかかってもなおウヒヒとヒロイックな快感を覚えていたところです。対応しきれないほどの仕事を抱えて「もう忙しくて死にそうだよォ」と恍惚の表情で話すタイプの人いますね。あれです。結果、抱えている仕事をポロポロ取りこぼして迷惑をかけているのに、本人は「そんなオレってカッコいい」と思っていたりします。周囲でフォローしなければいけない人たちが割を食う状況ですね。つまりは、大迷惑なんです。
自分の満足感を爆上げする「安請け合い」
依頼を引き受けると相手は自分に感謝します。そこに充実感を覚えます。多少業務負荷がかかっていても引き受けてくれる人には、余計に感謝しますよね。相手の役に立っている充実感が、続々と自分に安請け合いをさせ続けます。甘美な安請け合いの快感が、自滅への一本道になってしまいます。
現代社会に暮らすほとんどの人が、(少なくとも心の中に)自分の能力を圧倒的に上回る「気になること」を抱え込んでしまう(中略)。
自分がやるべきことのすべてを把握している人はほとんどいない。そのため自分があとどれだけやれるのかを把握しきれずに、一時的に自分の能力を超えた約束をしてしまうのだ。こうして安請け合いをしてしまった約束はたいていの場合、後々のトラブルにつながっていく。
(デビッド・アレン「ストレスフリーの整理術 実践編」より)
「こうすることが正しい」という思い込み
この甘美な安請け合い、当人は「こうすることが正しい」と思っているから始末に負えないんですね。このまま引き受け続けたらいつかパンクすることは分かっているのですが、まだ大丈夫、まだ大丈夫とズルズルいってしまいます。
「正しくある」ことをやめる
「正しい」ことを守って精神的に参ってしまっては元も子もありません。正しくないこと__引き受けない、つまり「断る」こと__を励行せねばなりません。「え、だって……」とこれを読んで思った方、もしかしたら崖から落ちる瀬戸際かもしれません。正しさにも適量があります。用法、用量を守ってお使い下さい。
用量を守るためには、自分の抱えている仕事の総量を把握することが大事ですので、ここでもやはりタスク管理は必須だなぁと、我が身を振り返って思う次第です。