「賢い・頭が良い」についての誤解
世に言う頭が良い人は、どんな人を指すのでしょうか。偏差値の高い大学を卒業した人でしょうか。円周率を何千桁も暗唱できる人でしょうか。
私は大学入試を現役と浪人の合計2年間やりまして、「結局大学入試ってどれだけ効率的に記憶できるかじゃないか」という感想を持ちました。「勉強が出来る」のと「賢い」のとは違うという話に納得した覚えがあります。
にもかかわらず、脳内に大量の知識を溜め込んでいること自体に大きな価値があると信奉する考えは、いまだに厳然としてあります。
それは間違いではありません。星新一は小松左京のことを「源氏物語の原典をスラスラ読むが、当時の文法や生活習慣などを一通り知らないと分からないはずで、その知識量には舌を巻く」とエッセイで書き残しています。この小松左京は間違いなく賢いという部類に入る時思います。
偏差値が高い受験生と小松左京の違いは何なのか。それは、必要な知識を適切なタイミングで取り出して組み合わせて提示できるかどうかだと思います。試験のための勉強は早晩記憶の底に沈んでしまいます。「あ、なんか昔勉強したような気がする」とよく言うのではないでしょうか。ただ記憶しているだけでは賢くはなれないということです。
最近、私がプレゼンテーションをした後、ある経営者があっけにとられたような顔で近づいてきて、こう言った。
「君、たった今、私の人生を変えてしまったようだよ」
「それはまた、どうしてでしょう」
「今までは、実を言うと、自分の記憶力がいかに良くて、いかに記憶に頼らずに管理できているか、というのが自慢だったんだ。もっとたくさんのことを覚えこんで、記憶の容量を増やそうと努力さえしてきた。だが、場違いなところにエネルギーを使っていたということが分かったよ」
(デビッド・アレン「ストレスフリーの仕事術 仕事と人生をコントロールする52の法則」より)
旧司法試験が実施されていた頃は、合格するには六法全書をすべて暗記しなければいけないというまことしやかな都市伝説が囁かれていました。しかし実際、弁護士が法令を引き合いに出すときには、六法を取り出すのです。記憶に頼りません。なぜなら間違いが起こりえるからです。顧客に間違った条文知識を元にアドバイスしてしまってはいけないからです。
考えてみれば至極当然のことですが、仕事の場になるとなぜか「頭に入れておくべき」信仰が根付いています。確かに、記憶していて何も見ずにスピーディにアウトプットできるのは、それはそれで良いことですが、記憶は忘れたり勘違いすることがあるというリスクをあまりに軽視しすぎではないかと考えます。
本当に賢い人は、脳の限界・弱点を承知して、それをサポートできる環境整備を行える人なのではないかと考えます。