タスク管理は、より自分が生きやすくなるための「手段」に過ぎずそれ以上ではない。
非常に考えさせられる記事を読みました。
タスク管理・生産性・人の尊厳。この3つの関係性は、慎重に考える必要があると思います。
— 小鳥遊 (@nasiken) 2019年7月26日
タスク管理を大事にしていても、人の尊厳の判断を生産性の多寡とする土俵に乗らないようにしたい。https://t.co/KkHelksljs
やまゆり園の事件の被告は「役に立つ人」「役に立たない人」という線引きをしていました。役に立つか立たないかは生産性の有無で判断される、ということです。
現代を生きる私たちは多かれ少なかれ、生産性で自分の価値を測られるのではないかという「時代の圧力」にさらされていることは、確かなのだろうと思います。
引用記事の中で鈴木さんが書いているこのことは、事実として受け入れなければならないと思います。その上で、どう対峙するか。筆者の鈴木さんはその方策を2つ挙げています。2つ目が特に印象に残りました。
そもそも「生産性」を巡る議論の土台に乗らないこと、生産性を基準としたあらゆる生の線引きを拒絶し、ただ「殺すな」と言い続けることです。
このブログやその他での記事やイベントなどで私は「タスク管理は生産性を上げる」という言葉を肯定的に使ってきました。タスク管理で自分の弱みをカバーして生産性を上げていこうと言っています。
生産性を上げていこうとすること自体は悪いことではないと私は考えています。仕事をして稼いでいきたいと考えている人に対して「生産性がその人の価値を決めるわけではない」と言って仕事のやり方やスキルを教えないのは本末転倒です。
ただし、生産性を上げることだけが自分の価値を上げる方法だと考えてしまうと、「内なる優生思想」にとてもつながりやすいので、慎重に考えなければなりません。今回、この慎重さを忘れてはならないと改めて思い返すことができました。
そもそもタスク管理、とりわけGTDは「生産性を上げる」のが目的ではなく、そこの先にある「水のように澄みきった心」の境地に達するのが目的です。GTDの手法を使って単位時間あたりのアウトプットを抑えるようコントロールして気持ちに余裕を持たせるなんてこともありです。生産性を上げたところで余計に心が乱れてしまっては意味がないのです。
タスク管理は、より自分が生きやすくなるための「手段」に過ぎずそれ以上ではないことは、ときおり忘れがちになってしまいます。もっと言うと、タスク管理が必要ない人もおそらくこの世にはいて、その人たちにも「タスク管理ガー!」と押し付けないようにしないと……。
大事なのは、タスク管理というスキルを身に付けてそれによってどうなりたいかなのかもしれません。
私は、次の2つのためにタスク管理を利用しています。
- 仕事以外の時間捻出
- 仕事によるストレス軽減
いずれも、時間あたりのアウトプットの数量をより多くするという生産性向上一辺倒ではありません。繰り返しになりますが、仕事から受ける精神的な負荷をできるだけ軽くすることと、仕事(本業)以外の活動を楽しむ時間的余裕を作り出すためにタスク管理を利用しています。
ある意味、会社にとっては「役に立ちづらい」社員なのかもしれませんが、タスク管理はそんな考え方も後押ししてくれます。
タスク管理をすることで生産性が上がることは素晴らしいですが、それのみをクローズアップして過大評価してしまい、「まだタスク管理やってないの?」と他人を評価するものさしにしてしまわないよう、気をつけたいと思います。