映画を分析的に鑑賞することとクラシック愛好家の楽しみ方を比較してみた
先日参加した「タスクシュートとマインドフルネス」対談イベント後のランチ会で、そういえばこんなこと話したなと思い出しました。
思い出したきっかけはこちらの大橋さんの記事。
なぜ、『仕事に必要なことはすべて映画で学べる』のか?
http://cyblog.jp/modules/weblogs/23700
大橋さんは、こんな風に映画を観ているのだそうです。
・一度目は観客目線として純粋に楽しむ
・二度目以降は作り手目線で分析的に観る
「分析的に鑑賞する」ことが、クラシック音楽の聴き方(特にマニアの)に似ていると思い、ランチ会で話しました。
まずは、一通り聴きます。
そして、2回目以降は、曲の構成、指揮者の音楽の作り方、オーケストラや各楽器の奏者の演奏方法を、微に入り細にわたって聴きこみます。
クラシック音楽は、同じ作品でも違う指揮者やオーケストラで演奏されるため、「同じ曲の違う演奏者での聴き比べ」「同じ作曲家で違う曲の聴き比べ」「同じ曲、同じ演奏者でも、年代が違うものの聴き比べ」といった、マニアマニアした楽しみ方をされています。
これは、映画で言えば、同じ作品のリメイクを観たりするようなものでしょうか。
どちらかというと、演劇に近いでしょうかね。同じ脚本で違う演じ手が演じる、というのでしょうか。
ただ、クラシック音楽には楽譜があり、その通りに演奏しなければならないので、自由度は低いです。演出家がいて、設定が変わったり、台詞が変わったりといったことはありません。
それだけに、楽譜の細かい所の解釈が話題に上ります。
カラヤンはここのクレッシェンド(だんだん大きくすること)を、書いてある小節の後半から開始している
だとか、
アバドはこの部分の3拍間のトランペットを強調させている
とか、とにかく細かく分析しては悦に入っています。
この人達の凄いのは、そういった「ちょっとした解釈の違い、個性的な演奏をしている部分に何らかの意味を見出して、ストーリーを作ってしまう」部分があることです。
ムラビンスキーは、チャイコフスキーの交響曲第5番の第4楽章、慣例的にされている展開部前のティンパニのクレッシェンドを一切行わずに、猛烈な勢いでヴァイオリンのメロディを弾かせ始める。これは、当時の帝政ロシアの雰囲気を見事に表している。晴れたかと思ったら何の前触れもなく吹雪が襲ってくることの冷酷さを、ただひたすら音量を上げずにトレモロし続けるティンパニに託しているのではないか。
こんな感じで、一瞬の音に様々な思いを込めて、クラシック音楽愛好家(通称「クラオタ」)は日々クラシックを愛聴しています。
大橋さんの映画を見る方法と違う点は、クラオタは「一般化を試みず、自分なりの再現性を求めない」ということです。
あくまで音楽の楽しみを、愛好家同士で「この録音すごくね?」「マジやベーなストコフスキー!」「ちょ、チェリビダッケ遅すぎ!(笑)」「ハイフェッツは神!」といった会話をするために、味わっていると言っても過言ではありません。
ここら辺が、クラオタが忌避されがちな理由かもしれませんね(笑)