ForGetting Things Done

「水のように澄みきった心」で頭空っぽに。

「仕事を書き出す」は単なるテクニックを超えた、生存戦略だ。

大事なことなのでまたまた言います

このブログで何回も書いていることですが、大事なことなので何回でも同じことを書きます。

 

仕事が終わったら、仕事のことを忘れる。これができるとできないとでは全く違う、ということです。

 

違う、というのは焼きそばと冷奴は違うよね!といった単なる相違ではなく、良し悪しが転換するという違いです。

人生や仕事において「選択肢をその場その場で臨機応変に考える」というスタイルは、長い目で見ると絶対にうまくいかない。やるべきことのすべてをあらかじめ把握していないと、エネルギーの大半は、把握し忘れたことについて心配したり、目の前に突然現れたものと格闘することに費やされてしまう。自信を持って行動するかわりに、うまく乗り切れることを祈るしかなくなるのだ。
(デビッド・アレン「ストレスフリーの仕事術 実践編」より)

 

給料は「我慢料」込みではない

残念なことに、自分が抱えている「気になること」「やるべきこと」を全部書き出そうと言うだけで、言われた方からはタスク管理、GTDは見向きもされません。

 

しかし、仕事が終わった後に友達と飲んだり、家でくつろいでいたりしても、頭から仕事のことが強迫観念のように離れず、リラックスとは程遠い状態であることってありませんか。私はそれが当たり前だと思っていました。それが「社会人として働いて給料をもらう」ということなのだと思っていました。

 

でも、それは違います。社会人として働いて給料をもらうのは、何か役割を果たして結果を出したからに過ぎず、そこには「我慢したかどうか」は必須ではないんですね。辛いことに耐えて乗り越えてこそいっぱしのサラリーマンだ!という風潮がそこはかとなくあるような気がしますが、会社を出ても仕事のことを考えて不安で頭がいっぱいになるという状況に我慢するというのは、給料のうちに入っていません。

 

我慢は美徳という価値観

電通を昨年末に退職して「青年実業家」と名乗っている田中泰延(たなか・ひろのぶ)さんは、電通時代の激務を振り返り、仕事をこう定義しています。

www.machikado-creative.jp

「仕事」は、「自分の能力と、自分の時間で、社会の問題にとりかかり、担当部分を解決し、お金をもらう」ことだ。

 

電通社員の自殺事件、これは対岸の火事ではないと思っています。本人は業務過多で精神的に辛くなってしまったと思われますので、厳密には私が上で挙げた例とは違うかもしれません。しかし、我慢してこその成長といった価値観に支配されることで、仕事に精神を追い詰められるという感覚は、ほぼ同じだったのではないかと考えています。なので、対岸の火事ではないと思いました。

 

のほほんと何事もなく生活しているのに大層なことを言うな、と言われるかもしれませんが、誰にでも精神を病んで自死衝動が出る可能性はあると思います。何気に隣り合わせなのです。私は今でも「死にたい」という口癖が無意識に口をついて出てきます。そんなこと毛の先ほどにも思っていないのに、10年前に自分を追い込みすぎた時に出てきた心の声が、まだまだ自分の奥底に留まっているのです。仕事場以外で、仕事のことで頭がいっぱいに……というのは、そのくらい危険な状態なのです。

 

そんな重圧、しかも無意識に背負っている重圧から、私はタスク管理"GTD"を実践することでかなり解放されました。仕事が終わったら、まるで重い荷物を降ろしたかのような解放感を味わいつつ会社を出ることができています。

 

「給料は我慢料」という、どこかで言われたような話をそのまま信じ込んで、無意識に重圧を背負って生き辛さを感じている方、私と全く同じというわけにはいかないかもしれませんが、タスク管理でもしかしたら解放されるかもしれません。

 

私にとって、仕事を書き出して、全てを把握することは、単なる仕事上のテクニックを超えた、自分を危機から救ってくれているものです。そのプロセスを含むタスク管理"GTD"は、私にとって大事な生存戦略でもあります。