ForGetting Things Done

「水のように澄みきった心」で頭空っぽに。

「夢想家」モードと「実行家」モードの切り換え

「理想主義ですね」
先日、社内で働く2人の中国人の方と会食しました。ひとりは中国の大学を卒業してから日本の大学院に入り博士号まで取ったTさんという女性。もうひとりは上海で自分の会社を10年間経営し、その傍ら当社で仕事をしているというCさんという男性。

 

お2人とも非常に優秀。日本語、中国語、英語に堪能です。また、細やかな配慮も忘れません。私の前で話をするときにはその2人で話すときも日本語で話していたので、「なんで中国語で話さないのですか?」と聞いたところ、「中国語を知らない日本人と同席しながら中国人同士で話すと、その日本人にとって分からない話を目の前ですることになるので、それは失礼だからです」という気遣いをしてくれています。

 

そんな方々と会食をしたときに、Cさんから「小鳥遊さんは理想主義ですね」とにこやかに言われました。なるほど、確かに10年間も上海で会社の経営をしていると、理想主義よりは現実主義寄りになるのかなと思いました。とはいえ、彼の経営に関する考えは、現実主義でありつつ、とても優しいものでした。

 

私、若い頃は「理想主義」と言われると、若干の違和感を覚えずにはいられませんでした。世間知らずと言われているような、そんな気がしたのです。今は、それなりに社会に揉まれた結果、その上で理想主義と言われるのもありかなと思うようになりました。ただ、自分の中では理想主義と現実主義の2人の自分がいるような気がしています。

 

「夢想家」と「実行家」
タスク管理メソッド”GTD"の考案者デビッド・アレンは、その著作で「夢想家」と「実行家」の2人が自分に内在するとしています。曰く、「夢想家」とは、のんびりしながら考え事をする。「実行家」とは、目の前のやるべき事を整理して具体的なネクストアクションを実行する。

 

そして、「夢想家」と「実行家」の使い分けについて、以下の通り書いています。

私が「夢想家」気分のときに、大量に溜まっているやりかけの仕事をどうやって片付ければいいのだろう、とか、仕事を増やしすぎてしまったんじゃないか、などと考えはじめると、腹が立ってきて、やる気が削がれてしまう。また、私が「実行家」の気分になって仕事を片付けているときに、「こんなことよりもっと重要で大きな仕事について考えるべきではないか?」なんてうっかり独り言を言ってしまったりすると、すっかり意気消沈して、何もしたくなくなる。
(デビッド・アレン「ストレスフリーの仕事術 仕事と人生をコントロールする52の法則」)

 

夢想家のときと実行家のとき
ひるがえって自分のことを考えると、仕事をしているときはほぼ実行家だと言えます。洗い出してあるタスクをただただ実行する、という状態です。「自分は何をやるべきか」と問う時間なく手を動かしています。

 

自分がいわゆる「夢想家」モードになるときは、仕事以外の時間になる傾向があります。タスク管理関係の情報発信について考えたり、趣味の音楽を聴いてその世界に浸ったり。会社の行き帰り通勤時にはこうなることが多いです。

 

このモードの切り換えをしていると何が違うのか。端的に言うと、頭の中の風景が違うと言えます。実行家の時は、自分のツールの画面が脳内で表示され、GTDの「見極め」「整理」を粛々と進めています。夢想家の時は、ツールの画面は表示されません。

 

この「会社にいる時」「会社にいない(仕事をしていない)時」の切り換え方法として、自分のタスク管理ツールを脳内に表示させるかさせないかで分けるというのは、割と分かりやすくて良い方法だと思っています。

 

仕事とプライベートの切り換えが上手くいかないという方は、仕事上のフレームワークをタスク管理ツール等で視覚化すると良いかもしれません。自分のデスク上のPCと同時に自分の頭の中でもツールを起動させる。そして、仕事が終わったらPCも落として、脳内のツールもシャットダウンさせる。これが自分がうまく切り換えができている理由なのかなと考えています。

「頭の片隅」問題

「覚える」への不信感
タスク管理GTDをしていますと「覚えておく」ということについて絶対の不信感を抱くことになります。これはもう絶対です。しかも「覚えない」ということに対して何の悪びれもしません。記録(記憶)機能が無いんだからしょうがないじゃないか、と言わんばかりに「……覚えてませんが(何か?)」と返答されるのがオチです。

 

あくまでこれは私の感覚であって、もしかしたらタスク管理猛者の中には、覚えておくことに対してある程度の自信を持っていて、実際メモ書きせずにサササッと覚えてしまう人もいるかもしれません。なので、話半分で聞いておくと良いかもしれません。

 

「頭の片隅にでも……」
「まぁこれは頑張って覚えていなくてもいいです。頭の片隅にでも置いていただければ十分です」という台詞に「覚えなきゃいけないのか、覚えなくていいのか、どっちなんですか?」と聞きたくなるのは私だけでしょうか。そう聞いてしまうとどうやら角が立ってしまうので、「頭の片隅にでも……」と言われた瞬間に「あ、これは忘れてもいいんだ」と思います。そして、多分即座に忘れます。


覚えなきゃいけないのか、覚えなくていいのか
これまでの話は、麗しき日本語の妙で「頭の片隅」なる言葉によって「覚えておいて欲しいけど、忘れても咎めないよ」というような意味合いを込めて「頭の片隅に……」と言ってくれる相手のご厚意をガン無視するような考え方です。それに追い打ちをかけるように、タスク管理メソッド”GTD"の考案者デビッド・アレンは、著作で以下のように記しています。

 他のことは頭の片隅にでもとりあえず置いておけばいいじゃないか、という人もいる。しかし、頭の片隅とはどういうところだろうか。そもそも頭の中は柵のようなもので区切ることができるものだろうか。その柵を越えて、今考えていること(そして集中すべきこと)に悪い影響を与える可能性はないのだろうか。
(デビッド・アレン「ストレスフリーの仕事術 仕事と人生をコントロールする52の法則」)

 

頭にはど真ん中も片隅もない
「頭の片隅なんて無いじゃないか」とデビッド・アレンは皮肉っています。人間の脳は「忘れる」という機能がある限り、記録媒体としては失格だと私は思っています。だから、頭の中の気になることをすべて書き出そうというGTDの「把握」フローには、非常に共感します。頭のど真ん中とやらで覚えておけば絶対忘れないかと言うと、絶対に忘れないとは言い切れないわけです。相手が行為で「片隅……」といってくれたとしても、特に記録の有無がシビアに判断される場合__往々にしてそれは「仕事」ですが__であれば、その言葉に甘えることはできません。

 

頭の中から「自分が気になる、やるべきこと」を追い出して紙の上に書き出すことを、GTDが口を酸っぱくして言っているのはおよそこのような理由によるものと思われます。

荷物は下ろすまでその重さは分からない

重い荷物を背負って歩く
重い荷物を背負って歩いていると、そのうちだんだん慣れていき、最終的にはもうそれが普通に感じてきます。しかし、いざ目的地について荷物を下ろすとびっくりするほど体が軽く感じられますよね。

 

それと同じことが、実はストレスでも起こるようなのです。

 

「ストレス?あまりないかな」
GTDの考案者デビッド・アレンの著書には、こんな一節があります。

私がコーチしてきた経営者たちの多くは、自分自身のストレスの程度を正しく自覚していない。「ストレス?あんまりないかな」という人たちに、自分が気になっていることを紙の上に書き出してもらうと、彼らは決まってこう言う。「すっかり気分が良くなったよ!」(気分が良くなったということはその前は?)。
(デビッド・アレン「ストレスフリーの仕事術 仕事と人生をコントロールする52の法則」)

タスク管理を必要無いと言い切る人

タスク管理が必要ないと言う人には、大きく分けて2種類いると思います。1つは、タスク管理が何だか難しそうだからやりたくないので「必要ない」と言う人。気持ちはすごく分かります。

 

もう1つは、「自分はタスク管理の必要性が無いくらいにストレス無く順調に仕事をこなせている」と言う人。本当にそういう人はいるかもしれません。結局、ストレスが無ければ良いのですが、得てして「重い荷物を背負っているときは、その荷物の重さを感じていないもの」なんですね。

 

荷物の重さを感じる機会を

私は、仕事をストレス無くこなせている実感もなく、かといってタスク管理などというものに頼ることまでは考えもつきませんでしたので、後者の劣化版でした。そんな私でも、荷物を背負っているときはその重さを実感することはありませんでした。いや、むしろ、重いと思ったとしても、「いや、重いはずはない」と自分をだましていたように思います。

 

この、「重くない」と自分をだまして頑張って背負っている人は割と多くいるんじゃないでしょうか。日常のちょっとした違和感、不安、疲れがそのアラートになります。今思えば、いくつもそのアラートが表れて自分の身体からSOSが発信されていたのに、なぜ気が付かなかったのかと考えることしきりです。

 

かすかなアラートであっても良いので「あれ?」と思ったら、試しに自分が気になっていること__ほぼそれは「仕事」であることが多いのですが__を紙の上とかデータで書き出すことをお勧めします。自分が頑張って背負っていた荷物の重さをそこで初めて実感できることと思います。

GTDは思考と行動の仲人

生活のための仕事
生活のために自分の時間を切り売りして給料をもらう。それもあり。むしろそのために自分を律して労働をするのは評価されるべきですね。ただ、自分がこうなりたい、こうしたい、というイメージが幸か不幸か出来上がってしまった人には、この働き方は苦痛でしかない。

 

仕事で自己実現
怪しい自己啓発セミナーや安易な自己啓発本や記事で書かれまくって、もはやネガティブな印象を受けてしまう「仕事で自己実現」という響き。本来の意味に立ち戻って考えてみると、割と大事なことだったりします。

自分がどうしたいかを考えなくてはいけない、と感じつつ忙しく仕事をしていると、何をやっても疲れるばかりで充足感が得られない。逆に、実際は行動を起こすときとわかっているのに、責任を回避するために何もせずにただ考え込んでいるときは心が乱され、思考に集中することができなくなる。
どうしたらこの2つをうまく両立できるだろうか。
(中略)
問題は思考と行動の「バランス」ではない。そこにある関係性である。
(デビッド・アレン「ストレスフリーの仕事術 仕事と人生をコントロールする52の法則」)

 

思考と行動を結ぶかどうか
今やっている仕事によって自分はどうなれるのか、なりたいイメージに近い近づいていけるのか。できれば、今の自分と、思い描く将来の自分のイメージを線で結びたいなと思います。線で結ばれた状態はどうなるのかというと、タスク管理メソッド”GTD"の開祖デビッド・アレンはこのように書いています。

目標を持つことの価値は、「いずれ何かを達成する」ことにあるのではなく、「今この瞬間に行う決断と質が、その目標によって前向きに変わる」ことにある。
(デビッド・アレン「ストレスフリーの仕事術 仕事と人生をコントロールする52の法則」)

 

 

タスク管理で「線」を描く

タスクの目的を明確にして、そのために必要な手順に分解すると、その1つ1つの手順を実行しているとき「今、自分は間違いなく目的に向かっている」という自信を実感します。そのとき、行動は思考のためにあり、思考は行動をより強化するという関係になります。GTDによって、今の自分と将来の自分(目的)がつながります。

 

GTDは「仕事を成し遂げる技術」であるとともに「自分の(将来的な)目標に向けてまい進できるフレームワークでもあります。自分の中で分離されている思考(自分はこうありたい、という思い)と(今の自分の)行動の間を取り持つ役目を果たします。

7つの習慣的GTDへの違和感(のきばトーク第49回)

7つの習慣的GTD
昨日に引き続き「のきばトーク第49回」についての記事です。

www.youtube.com

番組の中で出てきた「7つの習慣的GTD」という言葉が印象に残りました。個人が行動する最上位の規範であり自分の使命とも言われる「ミッション・ステートメント」を達成するための方法論としてGTDを使うという文脈でした。

 

GTDの「目的」
GTDでは、その設定するタスク(あるいはその集積たる「プロジェクト」)の目的に制限はありません。「台所にある醤油を取ってくる」もタスクの目的としては大ありですし、「今年中に5キロ痩せる」も立派な目的です(達成可能かどうかは別として)。

 

つまり、どんな小さな目的も、そして大きな目的もGTDの対象になります。極端な話「世界から戦争をなくす」という目的もGTDでのタスク管理の対象になってしまいます。

 

違和感
GTDはとても良いフレームワークだと思っていますが、GTD本を読んでいて違和感を覚えるのが、この「大きな目的」への姿勢です。本では「高度が高い」と表現しています。どんなに高度が高い(大きな)目的であっても、それよりも下位のタスク、そのまた下のサブタスク……と分解していけばいずれ「具体的に実行可能なレベルの行動」へ落とし込むことができるというのです。

 

私はGTDによるタスク管理を広めることで、自分は要領が良くないのではないかと思っている人に、きちんと仕事がこなせるようになって欲しい、そういった流れを作りたいと常々考えています。

 

しかし、この目的をGTDのフローに乗せてタスクに分解して、ということをやったことがありません。書き出そうと思って書き出せないことはないでしょうが現実味が無いと感じます。もっと高度を落として「タスク管理を紹介するイベントを開催する」あたりであれば、GTDでタスク管理するのは違和感はありません。

 

GTDで夢を実現?

のきばトークの中でも「7つの習慣的GTD」に対しては諸手を挙げて賛成!という感じではありませんでした。私にとっても、あまり高度の高い目的(自分の使命とか、叶えたい夢など)を自分が毎日仕事で使っているタスク管理ツールに書き込む気にはなりません。

 

個人的には、自分の使命や夢などは、頭の中から追い出さずにふわふわさせておくのがいいんじゃないかと思っています。その中で、その夢などにつながるような動きが現実化したら、その現実化したタスク(あるいはプロジェクト)を書き出して管理すれば良いと考えています。なんとなくですが、自分の使命や夢を頭の中から追い出したら寂しくなっちゃうような気がしますので。

タスク管理における「過去志向」と「未来志向」(のきばトーク第49回)

のきばトーク第49回拝聴

のきばトーク第49回を聞いています(これを書いている今はまだ途中です)。

※のきばトークとは、タスク管理界の巨人、佐々木正悟さんと倉下忠憲さんによるネットラジオ番組です。

www.youtube.com

番組中、タスク管理に関する「過去志向」「未来志向」について言及がありました。

 

「過去志向」と「未来志向」
私の理解ですと、「過去の経験からそのタスクをするとどのくらいの時間がかかるか、どのような手順で行えば効率よく進むかを明確にして、その通りに実行する」というのが過去志向。過去の経験も参考にしながらも、若干の成長(?)を想定して時間や手順を見積もり実行する」というのが「未来志向」というものです。要は、未来は過去の自分よりも幾分か成長しているという予測の元に計画を立てるかどうかということだと考えています。

 

過去志向と未来志向の違い
佐々木さんは過去志向であり倉下さんは未来志向だというご本人たちのお話でした。そして、その違いはどこにあるのかを佐々木さんは大きく「自信の有無(あるいは程度)」と説明されていました。

 

自分は日々成長しており、過去10分かかったタスクは未来においては5分でできるであろう、というのが「自信」があることによる未来志向の思考パターンです。

 

逆に過去志向は、過去10分かかったから未来においても10分かかるであるという前提に基づいて「この目の前のタスクは10分かかる」という考え方です。

 

番組中では10人いたら殆どが未来志向であろうという話になっていました。0-100ではなくて、過去志向70%で未来志向が30%である、といった、過去志向と未来志向が入り混じった状態である人が多数であると私は思いました。

 

未来志向であれ!
以前勤めていた会社で、私と部下ふたりに課された仕事の締め切りの見積もりで上司から怒られたことがありました。過去同様の案件では1か月かかっているから、今回も1か月、もうちょっとバッファをとって1か月と1週間くらいに設定して上司に申告したのです。上司からは「1か月でできたんだから、次は3週間でやるように部下に働きかけないと成長が無いから駄目だ」という内容で注意を受けました。そうやって組織は成長させていくものなのかと思ったものです。

 

その考え方は正しいです。しかし、また別の正しさもあると思っています。キツキツの締切を設定してグイグイ詰めるのではなく、余裕を持って作業を進めるために少し緩めの締切の設定をするのもまたありなのではないかと今は考えています。当時の会社というか少なくとも私の上司は体育会系の「未来志向100%であれ!」という社風だったんでしょうが、私には合いませんでした(良し悪しではなく、ただ違ったというそれだけの話です)。

 

どれくらいの割合がよいのか?
私は、未来志向になろうとし過ぎて計画をたてて挫折することを繰り返しておりました。今も油断すると未来志向100%になってしまうので、なるべく過去志向であろうと気を付けています。過去志向60%に未来志向が40%くらいが良いのかなと思います。

 

過去志向でいくにも過去の記録が必要ですし、未来志向でいくにも何に対処していくのかという「自分が抱えるタスクの洗い出し」が必須です。やらなければならないタスクの洗い出し、そしてそのタスクをこなした記録。これらはタスク管理の根底を支えるものです。もしかしたら、未来志向も過去志向もなく、ただ漫然と手を動かしているだけに近いのが、一番避けるべき状態なのかもしれません。

トンネルの先の小さな光

今自分が真っ暗なトンネルの中にいて、その出口がどれくらい先かわからないような状態だと考えて下さい。

 

そこまで来るのに疲れ果てていたとしても、遠くにかすかな光が見えたとしたら、途端に元気にその光を目指すものではないでしょうか。

 

あるいは、「出口まで100キロメートル」という表示を見つけたらどうでしょうか。際限なく続くと思われたトンネルが、100キロメートル先には確実に終わると分かるだけで随分気が楽になるのではないでしょうか。

 

人生におけるやりかけの仕事を考えるとき、たいていの人は、それらは自分の平穏を乱すことだと考えるらしい。だが、実際は逆だ。やりかけの仕事をすべて把握することができてはじめて、人生の平穏が完全なものになる。あなたに必要なのは「完全に終わっていない仕事」を完全に把握することなのだ。

(デビッド・アレン「ストレスフリーの仕事術  仕事と人生をコントロールする52の法則」)

 

 

毎日の仕事は、ともすればどこまで続くか分からないトンネルの中を歩くようなものだと思います。歩きはするものの、今自分がトンネルの中でどの辺りにいるのか分からない。むしろ、無限に続くような気がして、歩みが遅くなったり、歩く気が萎えたりします。

 

100キロメートルは遠いですが、それでも出口がそこにあると分かるだけで気が楽になります。モチベーションが上がります。自分がやるべき仕事がどれだけあるのかを把握することも同じだと感じます。

 

タスク管メソッド"GTD"でまず行う「自分の抱えるやりかけの仕事を全部書き出して把握する(『把握』フロー)」は、「このトンネルは100キロメートル先までです」と教えてくれるようなものです。

 

100キロメートルもあるのかと歩みを止めるのもさもありなんですが、だからと言って瞬時にトンネルから脱出、つまりその仕事(場)を辞めるのは、あまり現実的ではないですね。おそらく「そうか。100キロね……」とつぶやいて、歩くことになります。

 

それでもトンネルがどこまで続くか分からない状態よりは格段に良く、気持ちも前向きになります。GTDの「把握」フローには、歩かなきゃいけない距離を(冷酷にも)あらわにするのと同時に、「それより先トンネルはありませんよ」という安心感を与えてくれるわけです。

 

その距離が、もしかしたら1キロメートルかもしれないし、10キロメートルかもしれない。それが実際に何メートルあるのかは、仕事タスクを洗い出して「把握」するまで分かりません。

 

実はトンネルの出口が40メートル先だったとして、それでも出口までの距離を把握せずにへたり込んでしまうということもあるでしょう。

 

GTDの「把握」フローは、自分が終わらせていない仕事を列挙するので、それだけ聞いて想像すると「あなたはこれだけやっていないんですよ!」と言われるような恐怖があるかもしれません。

 

現在私には未完了の仕事タスクが100以上あります。多いと感じるかもしれません。しかし、実際書き出してみると、長く続くトンネルの彼方に光明を見出した人のように、安心感とモチベーションが生まれています。

 

怖いかもしれませんが、大丈夫です。GTDを、よろしければ是非ご一緒に。