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「水のように澄みきった心」で頭空っぽに。

「なんでタスク管理を広めたいのか」考

きっかけはこちらの記事。

 

 

当初より「自分と同じような特性を持って生き辛さを感じている人のためにタスク管理を広める」と言っておりました。それは今も変わりません。ただ、自分の中で、あまりにもこのモチベーションが長期間維持できている(どころか増大している)のが正直理解できなかったんですね。

 

「同じような生き辛さを感じて悩んでいる人のため」という、単純な綺麗事だけで人間はこんなにエネルギーが湧いてくるものだろうかと疑問に思ったんです。

「湧いてくるんです!」と言い切るのもありですね。おそらくこれが答えかと思います。

タスク管理という方法論、具体的に言うと、エクセルで作ったただのリストを埋めていくだけで今まで悩まされてきた仕事上の「上手くいかない感」が解消されたという経験は、自分にとって類を見ないほど衝撃的でした。

 

「これ(タスク管理)は凄い!」という確信はとても大きかったです。その確信は、自分に大きなエネルギーを生み出す源の1つだと思います。

 

とはいえ、私が基本的に自己肯定感が上がりにくい性格をしているのと、タスク管理はマイナーで取っ付きづらく、なかなか思いが伝えられなくて残念な思いをすることがあり、「自分が『良い!』と思ったことを他人に勧めても、相手には迷惑かもしれない」とどこかでブレーキをかけています。

 

このブレーキをどうコントロールすることが大事なのかなと思っています。 

なぜタスク管理を広めることに夢中なのか

私が夢中になったもの

私が夢中になったもの(ひと、では無く)は今までに2つ。クラリネットとタスク管理です。生活様式を変えるまで影響を与えました。クラリネット歴は27年、タスク管理歴は4年。年数の差はあれど、現在の熱中度は甲乙つけがたい状態です。

 

クラリネットに夢中になった理由

クラリネットはなぜ夢中になったか。それはドラクエです。ドラクエIIIの洞窟の音楽冒頭、クラリネットの演奏する半音階の音色が好きになったからです。サントラはN響が演奏しており、おそらく故・浜中浩一さんの音色でしょう。仄暗くも艶やかで魅力的な音色に惹かれました。

 

ゲーム禁止の家庭だったため、せめて演奏してゲームを追体験したいと、当時学校で習っていた縦笛でドラクエの音楽を吹いていました。ただ、縦笛は音域が狭いのです。縦笛に似た楽器で、できるだけ音域の広いものを図鑑で探した結果もクラリネットでした。

 

タスク管理に夢中になった理由

クラリネットに比べて、タスク管理に夢中になった理由はなかなか言語化できないでいます。自分で独自の「エクセルで作った自分の弱点をカバーするリスト的なもの」がタスク管理手法"GTD"の運用とピッタリ合うことが分かった瞬間の感動は忘れられませんが、それだけでは人に広めようというモチベーションに繋がりません。

 

それなのに、なぜ自分が発達障害ADHDの診断を受けていることや仕事が立ち行かなくなり休職や退職をしたことを開示して、そんな私を救ってくれたタスク管理のことを広めようとしているのか。よく考え始めたら訳が分からなくなってしまいました。だって、ADHD当事者だとか仕事辛くて休職しただとか、控えめに言ってもメチャクチャ機微情報じゃないですか。それを嬉々として開示する、そんなリスクを犯してまで、なんでイベントを開いたり、就労支援事業所に直談判して講座をさせてもらったりしているのか。謎です。やはり分からないとしか言いようがありません。この心理メカニズムを解明してくださる方がいらっしゃいましたら、是非お教えいただきたいと思っています。

 

利他的な傾向?

1つだけ確実に言えるのは、上記のリスクのリターンとしては、一般的な価値基準での報酬(お金や名誉など)を得ることよりも、「タスク管理をやるようになって以前はうまくできなかった仕事がこなせるようになりました」とか「紹介してくれたタスク管理のお陰で落ち着いて取り組めるようになりました」といった感想をいただいたときの方が遥かに嬉しくてゾクゾクするということです。

 

かと言って、マネタイズ要素一切なくイベントを開いたりする余裕は、残念ながら無いです。あくまで嬉しさをどこに感じるかという問題です。霞を食って生きていくには私は修行が足りなさすぎます。

 

マズローの欲求五段階説の自己実現や、その上の自己超越などに関係あるのかなと思いますが、結論を急ぐものではないので、引き続きなぜ自分はここまでしてタスク管理を広めたいのかを緩々と考えていきたいと思います。

タスク管理講座での壁

就労移行支援事業所での講座

今月から週に一回金曜日に業務として、障害者就労移行支援事業所「EXP立川」に通っております。昨日も行ってまいりました。

 

「しくじり先輩」と銘打った私の講座、今回は毎月行う「自己チェック」と「交通費精算」について、EXP立川特製の「タスクチェックシート」と「タスクの分解表」に落とし込むということを、1日かけてやりました。

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講座の流れ

まずは自己紹介(みなさんご存知なんですが)、そして上のホワイトボードの内容、GTDの「把握」「見極め」を説明します。その後、タスクチェックシートとタスクの分解表にそれぞれ書き込んでもらい、疑問点を書き出してもらいました。

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お昼休憩を挟み、この質問に答える質疑応答の時間があります。そこで疑問点を解消して、より理解が深まったところでもう一回タスクチェックシートとタスクの分解表を作ってもらいます。

 

それが終わったら、各自一日の振り返りを発表してもらい、ファシリテーター臨床心理士の資格を持つスタッフさん)と講師(私)がコメントし、終了しました。

 

「タスク管理」のハードル

私にとっては「タスク管理」という言葉は身近なものです。しかし、一般的には馴染みのない言葉です。概念も正直言ってとっつき辛いものです。拙い説明をよく理解してワークをしてくれること、感謝の念に堪えません。

 

忙しい仕事の合間を縫ってタスクを書き出し、さらには細かい手順に分解するなんて、そんな手間にかける時間は無い!という、至極自然な感想ももちろん出てきます。実際、接客業などはいちいち手順完了のチェックをしたりする暇はないですよね。

 

私が紹介するタスク管理の形以外にも、あるいはいわゆる「タスク管理」という形を取らなくても実質は同じというシステムがあります。料理のレシピなんてそうです。料理本は生活に溶け込みすぎて意識できないほどですが、もしレシピを全部頭の中に叩き込まなければいけないとしたら、プロの料理人のトレーニングを積まない限りその負担は計り知れません。我々は料理本という外部記録のお陰で、その時その時の調理手順に集中できるという恩恵にあずかっているわけです。

 

記憶している情報を外部に預けることで経験できる精神的な落ち着き__これをGTDでは「水のように澄みきった心」と言っています__は、とんでもなく効果的だと私は断言することができます。その効果の前には、書き出す面倒臭さが霞んでしまいました。もし環境上それが難しくても、何とかして類似の状況に持っていけないかと必死で頭をひねるでしょう。

 

とはいえ、この感覚を伝えるのはあまりに難しいというのが講座を受け持つ私の悩みどころです。タスク管理の壁は、こちら側からもあちら側からも高いもののようです。

「タスク管理界隈」という優しい世界

「〜が好きな人に悪い人はいない」

「〜が好きな人に悪い人はいない」という話を聞くことがあります。音楽が好きな人に悪い人はいない、この本が好きな人に悪い人はいない、落語好きに悪い人はいない、などなど。

 

実際にはそうでない、つまり悪い人もいい人もいるんでしょうが、そう言いたくなる心理はとてもよく分かります。まずは、同じ趣味趣向を持つ人同士なので気が合う確率が高いということ。そして、そうあってほしいという願望。最後に、同じ関心事で集まると実際とても居心地が良いのです。

 

タスク管理界隈の合言葉

そこで、ここ2〜3年私が入り浸るようになったタスク管理好きが集まる「タスク管理界隈」について考えてみました。

 

もちろん、同じ関心事で繋がるので、居心地が悪かろうはずがありません。特筆すべきは、タスク管理に特有のことです。

 

以前、タスク管理マニアの集いで「意志の力は信じない」という言葉が自然に出てきたことがありました。自分の意志だけで自分の行動を律したり、何か事を成し遂げたりするのは無理だということです。一言でいえば「無理をしない」ということです。

 

諦めの先にある暖かい目線

この考え方は、後ろ向きなようで実はとても暖かく、緩やかながら確実に前を向いていると思っています。タスク管理に注目している人は、多かれ少なかれ自分の限界を知っています。その限界を拡張するために方法や環境を変えようとします。タスク管理は限界の拡張のための方法論と言い換えられます。

 

タスク管理界隈の人たちは、自分の限界を知るという無知の知」という下地があり、だからといって自分を否定するのではなく、むしろそこを起点として「拡張の方法論」によって目的や目標に向かっていく気概がある、といって良いのではないかと思います。

 

自己否定にならずに、自分の限界を知っているという心境は、他者に優しい眼差しを向けられるものだと感じています。その感覚を共有できるタスク管理界隈は、とても優しい世界だと感じています。

 

人と人との距離が近い

さらに付け加えると、タスク管理という分野は未成熟だということも、居心地の良さに影響しているかもしれません。体系化されておらず、タスク管理界の権威という不可侵の存在もない(第一人者とか、誰もが認めるインフルエンサーはいらっしゃいますが)。

 

そういった状況だと、お互いが持つ知識や経験、アイデアに興味津々になります。関係が密になり、三顧の礼をもってその人の持つ情報をいただこうという気持ちになります。私はタスク管理に触れ初めて3〜4年ですが、10年20年選手の方々が同じ目線で喋ってくれます。相手への敬意を持てば持つほど、より自分の欲求が満たされるようになります。

 

「水のように澄みきった心」

タスク管理手法"GTD"の考案者デビッド・アレンは、タスク管理を行うことによって「水のように澄みきった心」が手に入れられると説いています。しかし、もしかしたらタスク管理を実行せずともこの界隈の中にいるだけで精神的に良い効果があるのではないかと思っています。

GTDはある意味仕事術ではない

より仕事ができるためになること

より仕事ができるようになるには、例えば英語を勉強したり、MBAを取ったり、その他資格やらスキルやらを取りまくれば仕事がデキる人になれると思います。仕事がデキる人を「高い給料がもらえる人」と定義すれば、GTDよりももっと昇給に直結することがあると思います。

 

GTDの目的は?

GTDは昨今のエリートビジネスマンはもう当然のように知っているとか何とか言っている文脈では、さもハイクラスになるためにGTDを用いているような、そんな言われ方をしている気がします。GTDの持つ業務効率改善、迅速化は、あくまで副次的な産物、あるいは目的の前提に過ぎないと考えるようになりました。では、GTDの目的・本質は何なのか。

 

いざというときに速やかに、かつ完璧に最新の状態に戻れる自信がどれだけあるかだ。GTDの本質はこの部分にある。仕事をより速く、あるいはより集中して行える状態を維持することが直接の目的ではなく、その気になればいつでもその状態を実現できると思えることのほうがはるかに大事なのだ。

(デビッド・アレン「ストレスフリーの仕事術  実践編」より)

 

 

水のように澄み切った心

上で言っているのは、GTDで繰り返し強調されている「水のように澄み切った心」を得ることがGTDの本質であり目的だということです。業務を滞らせたり、抜け漏れが多発していても水のように澄み切った心になるなんて無理です。

 

何のための業務効率化か

何のために業務を効率化するのでしょうか。GTDを駆使した結果、業務は効率化され、確実性も格段にアップしました。それらは何のためにあるのか。会社員であれば「会社の利益のため」という言葉が出てきてもおかしくはありません。

 

業務を効率化させて残業代を抑制して人件費を低くすることや、スピードアップすることで、より多くの受注をいただいて売上を伸ばすことも、会社にとっては喜ばしいことですね。

 

ただ、会社の利益が自分個人がGTDをする目的かというと違うと思います。それよりも、業務の効率化や正確化のその先にある「水のように澄み切った心」で毎日精神的に余裕を持って過ごすことの方が何百倍も大事だと思います。これは自分に対してなのですが、ゆめゆめGTDで業務生産性向上することだけ注目しないよう。それで身体なんか壊した日には、本末転倒も甚だしいですからね。GTDは仕事術ではなくて、自分を労わるための処方箋なのかもしれません。

タスク管理でクォンタムチェンジ

クォンタムチェンジ

私がお世話になっている、社会福祉法人SHIPで理事をされている方のツイート。「クォンタムチェンジ」というものについて。

 

 

人格や価値観を変える

人格や価値観を劇的に変えるなんて、なかなか無いですね。ただ、私はタスク管理で価値観が変わったと自覚しています。以前、絶対的に正しいことだと思ったことが、実はそうでもありませんでした。仕事の進め方について曖昧だったものが「これだっ!」と思えるようになりました。

 

敗北の果て

あまりの不器用さにほとほと自分を諦めて、諦めきってやり始めた「自分にとっては屈辱的であり得ない仕事の管理方法」がありました。抜け漏れがどうしても出てくるなら、もうそれをしょうがないと考えて忘れてもいいように全部書くというものです。屈辱的と書きました。これは誇張でもなんでもありません。当時の私にとっては、自分の能力はこんなものだったのかと、敗北感の果てにしょうがなく辿り着いたものだったからです。

 

その瞬間

しかし、そうしてExcelに一つ一つ入力していく自分にとっては屈辱的なやり方が、誇れる仕事術に転換する瞬間があるやってきました。他の人で同じようにやっている人はいないかと「仕事」「管理」「業務タスク」といった言葉でググってみました。すると、私がやっていることと似た手法を、嬉々として誇らしげに披露したり素晴らしいものだとして紹介したりするページが数多くヒット!

 

「え?自分のこのやり方って、もしかして凄いの?」

 

と、本当に手前味噌で申し訳ないのですが、そう思いました。さらにググり進めると「GTD」なる単語がディスプレイに踊り始めます。見れば、アメリカで考案された、世界で最も素晴らしい仕事術の一つとして紹介されている!

 

これが分かった瞬間が、私のクォンタムチェンジでした。全身が歓喜で充填されるような感覚は、今でも忘れられません。その一瞬が、今のタスク管理×発達障害の活動の原動力になっていると言っても過言ではないと思います。

タスク管理の手間は必要だと諦めよう

タスク管理の面倒くささ

タスク管理が好きで好きでたまらなくなっている人は、タスク管理に自分の手間をかけることを惜しみません。タスク管理にかける時間と、管理しているタスクを実際に実行する時間のバランスが取れている人は問題ありません。

 

しかし、タスク管理すること自体が目的化してしまっている人は、はたから見ると本末転倒に見えます。私も、自作ツールにいくつかの機能を付け加えていた時がありましたが、明らかに無駄だったと思います。

 

逆もまた然りで、そもそもタスク管理に回す時間なんか無いですという人もいます。目につくもの片っ端から片付けていくプルドーザーのようなスタイルが私のやり方です、という考えです。

「気になること」の処理作業にはそれなりに時間がかかる。(中略)ごく一般的な量の情報が入ってくると想定した場合、通常はそれらを処理して最新の状態を保つのに毎日1時間ほどは費やさなければならない。

(中略)あなたはこの時間を利用してそれぞれの項目について考え、判断を下し、すぐにできる行動を終わらせ、データを仕分け、必要な人に連絡を取り、新たな仕事を見極めて整理していくことになる。

(デビッド・アレン「ストレスフリーの仕事術 実践編」より)

 

タスク管理をしないことは可能か

上にあるように、どんな形であれ、やるべきことをこなしていくときには、タスク管理にある一定の手間はかかるものです。全くタスク管理をしないで仕事をすることは考えられない(電話で頼まれた用件、メールでの依頼、口頭での頼まれごとを全部記憶できる人はいない)ので、必要最低限の時間は割かねばなりません。

大事なのは、こうした処理には時間がかかると認識することである。(中略)多くの人はそのことに気づかなかったり、認めたがらなかったりして、処理がどんどん追いつかなくなっていく。

(デビッド・アレン「ストレスフリーの仕事術  実践編」より)

仕事をする上では、誰しもがタスク管理には一定の時間がかかるということに気づいたり認めなければならない、ということです。始終自分の仕事を見張っている秘書がいて、全ての自分の仕事の進捗を逐一メモして知らせてくれるなら別ですが、そんな環境にいる人は稀ですね。

 

「実はかかっている時間」を認める

「自分は『タスク管理』だなんて大層なことは要らない。行き当たりばったりでなんとかする」と考えているブルドーザー型の人であっても、ノートや付箋にメモをしたり、部下や同僚に「これ覚えておいて」と頼んだりします。誰でもなんらかのタスク管理をしなければいけないという不都合な真実に気づく、あるいは認めなければならない。

 

そうであれば、無駄なく確実に動くタスク管理システムがあった方が良いですね。ポロポロ落ちる可能性がある付箋での管理や、「あれ?どこに書いたっけ?」とページをめくって探さなければいけない形でのノートでの管理は、私は不確実で無駄が多いと感じます。そして、本人はその無駄にかかっている時間をなぜか意識していないのです。タスク管理に通常かかる時間と、それすらやっていないことによる無駄な時間も、一日の時間の見積もりに入れようとしないのです。

 

かなり模範的にタスク管理が回せていたとしても、タスク管理がちゃんとできていなかったとしても、多かれ少なかれどうせ時間はかかります。なら、できるだけ時間がかからないようシステムを考えようというのが自然な流れではないかと思います。タスク管理に興味を持った人たちが新しいツールに飛びつくのも、より良い環境で生きやすくなりたいといった理由からだと思われます。