「不便さに妥協」してしまうとき
わざわざ不便な環境に自分を適応させる
面倒臭いことを避けたいのは誰しも願うことですが、それができない、いや、それをしようとしない場合があります。
「自分ルール」が確立しない人は、どこかで「不便さに妥協」していて、しかもその「妥協」がすばやく起こってしまい、常態化しているのです。
時計「を」合わせるのではなく、時計「に」合わせていた
この文を読んだ瞬間に思い出しました。自分が携帯している時計が5分遅れていたら、時計の時刻合わせをして正しい時刻を指すように設定を変更するのではなく「この時計は5分遅れている」という認識をすれば良いと考えて使っていたことがあります。
今となってはなんでそんな面倒くさいことをするのかと思います。ただ、その時は時計合わせという作業を避けたかったんですね。自分の認識を変える方が、面倒くさくないという判断です。なんと馬鹿馬鹿しい判断だとお思いでしょうが、ついそうしてしまう。この感じ、お分かりでしょうか。これが「不便さに妥協」するということなのでしょう。
しっくりくるかどうか
「シゴタノ!」の記事は、上記の引用の文章に以下の内容が続きます。
あきらめるのが早すぎるわけです。もっと合理的にわがままになって、もっと自分にしっくりくるものでなければ、たとえ「一般的に」どう言われてようと「その筋の権威」が何をしてようと、安易にそれらに「自分を合わせ」ては結局中途半端に合わせるだけで終わってしまいます。
不思議なことに、私にとっては、その場しのぎで時計の遅れに合わせて「この時計は5分遅れなんだ」と自分の方で補正をかけた方が楽なんです。ただ、これは短期的なスパンで考えたらという話であって、長期的なスパンで考えるときっと不具合が起こるのではないかと思います。
ツールの更新を怠るという「妥協」
タスク管理に絡めて考えれば、「タスク管理ツールを更新する」という不便さを避けるために、ツールに反映せずにどんどん仕事を進めていってしまうことが考えられます。ツールの更新を妥協して怠ると、とんでもない目に遭うことが分かっていますので、これは続いています。この不便さには妥協してはいけないと思っていますし、もはや私にとってタスク管理ツールの更新は不便ではないのです。