ForGetting Things Done

「水のように澄みきった心」で頭空っぽに。

切り取られる肉、収集されるタスク

食いしん坊の思考回路

私は小食ではありません。私をご存知の方は、私が「自分は実は小食だ」と言っても冗談としか思わないでしょう。オブラートに包まれた言葉でよく言われるのが「包容感がある」というもの。小食ではないどころか、食いしん坊です。

 

例えば、「大盛無料」と書いてあれば必ず大盛を頼みます(そして、食べ切ってしまいます)。半ライスや半チャーハンの「半」については、「半」は無いのと同じだ!と思っています。

 

「うやうやしく肉片を切り取るコック」

伊丹十三のエッセイに、焼いた牛肉の大きな塊から、一人分の肉片を切り出す仕草の描写がありました。目の前でコック自らうやうやしく切ってくれるのが贅沢であるという文脈でしたが、私は「なんで目の前で切られてしまうの?」という残念な気持ちがありました。

 

せっかく大きな肉塊があるのに、そこから小さな肉片が他人の手によって切り取られるというのは、「他者から分け前を制限される」という印象でしかなかったのです。食いしん坊である私は、あわよくば肉塊すべてを食べ尽くしたい__本当は不可能なのですが__のに、「はい、これまでしかあなたは食べられませんよ」とストップをかけられているような気がしてならなかったのです。

 

大きな肉塊が自分にとっては汲めども尽きぬ泉であって、それが切り取られるのは、無限の可能性を、目の前のたかだか100gか200gの有限な物に閉じ込めてしまう制約の象徴のように思えたのでした。

 

肉の逆、業務タスク

それとは逆に、できるだけ有限性に閉じ込めたいものが(業務)タスクです。将来に向かって無限に発生するタスクを、タスク管理ツールに収集して書き出す、あるいは入力することによって、有限の中にタスクを閉じ込めることができます。私にとってタスクは、肉とは逆に、有限なものとして把握していたいものです。

 

タスク管理がうまくいかない事例として、「自分はどこまでやらなければいけないんだろう」という不安に苛まれてタスクの収集をあきらめてしまうということがあります。これは、厨房に日々入荷されてくる肉塊に思いを馳せすぎている人のようです。肉の食べ放題は嬉しいものですが、タスク実行し放題は嬉しくありません。

 

タスク管理をうまく御している場合は、「自分のやるべきことはこの範囲であって、それ以外には存在しない」と安心できているときです。明日はまた厨房に肉塊がどんどん入荷されるかもしれないが、今自分が食べるものは目の前の肉片であると考えている状態です。小さく切り出された肉片しか食べられないのは私にとってとても寂しいものですが、タスクリストに書き出された分だけしか、差し当たって自分に課されたタスクは無いと考えられるのは大変嬉しいものです。

 

「ここ以外に無い」感

タスク管理における情報の一元化の効能は、「情報が一か所に集まって便利♪」といったライトなものであるのと同時に、「ここ以外には情報は無い」という安心感をもたらしてくれるものが大きいです。その安心感を最大限に得るため、タスク管理手法”GTD"の考案者デビッド・アレンは、「全てのタスクを書き出そう」と言っているのです。

 

肉は「ここ」以外にあって欲しい

タスクとは逆に、肉は「ここ」だけにしかありませんと言われるよりは、「ジャーン!ここにもありましたー!」と持ってこられる方が嬉しいです。タスクが延々と発生し続ける「デスマーチ」は避けたいですが、「肉マーチ」は大歓迎ですね。そんなこと言っているから、無駄な包容力(冒頭参照)が増えていくのですが。